壱岐の散歩道:渡良三島
     
原島編

○ 年月日 平成15年5月10日   快晴
○ メンバー 殿川紘史  (単独行)
○ 主要ルート (13:40)原島港ー>(14:10)<南部の海岸散策>(14:50)−>(15:20)原島港(15:40)ー>(15:50)大島港(16:00)−>(16:10)渡良港(16:20)−><友人宅訪問> ==>(18:30)宿泊先:実弟宅(湯之本)
○ 所要時間 トレッキング時間:2時間10分 <PM1:40−PM3:20> 総時間 3時間50分


<海岸線の真っ赤な岩>

風もない穏やかな海峡を渡り、着岸もいれて10分で「原島港」に上陸。 人口200人弱の島でなぜこんなに大きな立派な港が必要なのだろうか? でも建設はまだ継続中のようだ。 この港も狭い岩山を削り建設されたようで、港からは一軒の家も見えない。 車で荷物を運んだ若い女性運転手に島一周の道を尋ねて判った。 新聞記事によると「一周40分の島」だそうだ。 最終便:15時40分のフェリーの時間を確認して出発。 右手の道を進むと短い坂道となり、左手の土手に「あざみと名前不詳の黄色い花の大群」が迎えてくれた。 更に進むと「三島小学校原島分校」が見えた。 裏手のプール横から校内に着いた。 土曜休日で誰もいない。

原島港背後:あざみと黄色の花の大群 海岸の花が内部にも・・・ プロペラ形の花??

校舎前には色とりどりの花が咲き乱れており、手入れが良く行き届いていた。  あまりの綺麗な花に撮影意欲をくすぐられ、暫し時間を過ごす。 分校入口の門に抜けて、右手に進行。 数軒の家が並ぶがどうも、分校の先生の住宅らしいが殆ど空家に見えた。 数匹の猫が不信な侵入者を見て警戒しならこちらを凝視している。 右の道を進み小さいが豊かな部落を抜けると静かな小さい魚港に出た。 小さい部落の各家の庭には数匹いや10匹にも近い猫がのんびりとたむろしている。 漁に出ているのか港には一隻も係留されていない。 干潮を確認して、道から離れ「浜沿いの磯」を歩く事に決め、歩き易い石を選びながら前進。 磯から遠くない海には小さい漁船が漁をしている。 魚か磯物(サザエ・アワビ・うに等)かは判らない。

<原島分校校庭にて>
<名前:思い出せない>                          <おおまち宵草> <此れ花?実?>
小さい半島を廻りこんだところで不思議な岩=石がある磯に着いた。 表面が海水に侵食されてか「規則的な穴」が一面に出来、なんとも不思議な磯を形成していた。 規模はずっと大きかったが「四国の海岸」で同様な岩浜を見たことがある。  この地区だけの景観に見とれて、何十枚の写真を撮影しただろうか? いくら見ても見飽きる事のない。 全ての石の表情が違う。 その岩が疎らになると、その下の岩が「濃い赤褐色」なのだ。 此れも何故だか判らない。 灰黒食の侵食岩石と濃赤褐色の粘土質岩の組み合わせはとても奇妙だった。

<原島南西海岸の奇妙な形状の岩・岩・岩>
 <荒波?による侵食?:狭いこの地域だけの奇岩>
<軽石様の模様:火山からの産物?>
<真黒と赤のコントラスト:奇岩の下部や裂け目に現れた赤褐色の岩>

一旦海岸沿いの道に戻り高台上の石碑が目には入り其処に向かう。 近海で荒天のため遭難した人々の慰霊碑だった。  石碑の材質のためか、時間の経過なのか、その碑文字も読みづらい程に風化していた。 その周辺の岩場で「幾つかの山野草」の中に水分の少ない海岸に生育出来る植物が沢山の蕾をつけていた。 勿論名前はわからない。 此れと同じ花が「黒瀬」へのふみ跡にも有ったような気がする

白色の可憐な花:海岸縁の岩にて 天空に向かって:ミヤマシシウド コヒルガオ
近海での遭難者の慰霊碑 慰霊碑直下の磯:真黒の岩と真l赤な岩

再度磯に出る小道を辿り「荒々しい大きい石の磯」に出た。 直径10−20mmの穴のあいた大きい岩で前進が困難になり、引き返す前に撮影した。 時間の制約がないと「磯に沿っての散策」はとても面白そうだが、最終便のフェリーを逃せない。 元の舗装道路に戻り港への道である事を確認して歩き始めた。 急に道幅が2車線の道に出たが、両側の農地は近年に「区画整理」された広い平坦地で小さい島の農地とは考えにくいくらい整備されている。 その時にこの「2車線農道」も建設されたものらしい。 その整備された農地は100%何も植え付けられておらず、荒地になりつつある。  此処にかぎらず、特に原島の農地は殆どが「休耕地」でとても寂しい光景が多い。

海岸の岩の裂け目:沢山の蕾 青紫の可憐な花?雑草?:休耕地 緑とピンク:タデ
カラスノエンドウ 東部原島海岸:磯の散策を塞いだ巨岩の表情

此れに反して「島の家々の大きさと立派さ」には驚かされる。 漁業が収益源のようだ。 それに猫、野猫の多さにも驚いた。 何処からでも猫が見えるし、山道から飛び出す猫に何度おどろかせれたろうか? 2車線の道を下り、港の部落を抜けて「原島港のフェりー乗場・休憩所に16時に前に到着。 16時10分発のフェリーに乗船して「大島港経由」でキャンピングカーを駐車した渡良港に帰着した。 道中、電話確認して、高校時代の友人(2年前に東京から帰郷)宅を訪ね、午後5時から約1時間おしゃべりして、実弟宅には午後7時頃帰着。

東部海岸:離島の離島の小島 芥子の実? 原島の繁栄の功労者の記念碑 三島最後で最初の写真

約8時間の「渡良三島散策」で我、故郷を更に深く知る事が出来た満足感で一杯の1日だった。 「離島:壱岐」の中の離島であるため「自然の美しさ」が最も残っており、住民間の連帯意識も強そうだ。 特に最後の訪問の「原島」には沢山の若者を見かけた。 2・3男でも分家して島に残り事が他の二つの島より多いそうだ。 海の綺麗さが良く語られる「渡良三島」だが、小生の感想はエメラルドグリ−ンの海に囲まれた『山野草の花の豊富な島』であった。  残念だったのは 『全島全ての道路(農地に通じる小道も含めて)が舗装されていること。』、『3島共に「港」がコンクリートで固められ、人口や産業の規模に比べて異常に目立った』事だ。 長島・原島の農地の大部分が「休耕地」なのは「故郷:壱岐全体の過疎化現象がより早く現れている所と感じられた。 「壱岐島全体」が一つの『行政区:壱岐市』としてスタートする時を期して「成長する故郷」に向けた第一歩を踏出して欲しいと思った。


<参考情報>

『壱岐』: 佐賀県の真北約30キロの玄界灘に位置し、歴史上は日本と中国・朝鮮の飛び石的島としての役割を果たし、最近その大規模な遺跡が発掘されて「壱岐が邪馬台国の中心だった」とする学説を通じてその事実が確認されつつある。 行政的には「長崎県」に属し、経済的には福岡市との関係が最も深い。 その「博多港」から高速フェリー:ジェットフォイルで65分、飛行機は福岡空港と大村空港からと二つのルートが有り、夫々小型機で結ばれている。 人口は約35,000人、3町1村に行政区分され、国の政策に沿って「平成16年度の市制施行」が決定された状態。 島の産業は「農業」「魚業」「観光」「商業」が主体で、最高峰が200Mの「竹の辻」で、平地中心の島の為「林業」は最早皆無に近い。 その離島:壱岐の中の『離島:渡良三島』は、壱岐の中心の町:郷ノ浦町に属する。 三島の合計人口は約550人、 面積、約一平方キロの最大の島「大島」が、約半数、 約0.5平方キロ面積の他の二つの島「長島」と「原島」が半数ずつ。 代表的な産業は「漁業」。 現在でも夫々の島には「小学校の分校」がある便利な島で壱岐でも最も自然豊かな所である。  (各島の面積・人口数は「壱岐日々新聞の記事」から転載させて戴きました。)

『壱岐観光協会』  http://www.ikikankou.com/
   ( 壱岐の観光情報全般 )

『郷ノ浦町』     http://www.town.gounoura.nagasaki.jp/
   ( 「渡良三島」の所属する町のHP )


『壱岐巡り』     http://homepage1.nifty.com/HAKUSEN/  
   ( 「壱岐の歴史・遺跡関連情報 )